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2008年5月25日 (日)

Be with you

今回は、【GLAY】の歌に影響されています。

[共に] が増えると良いな

そう願わずにはいられなくて、、、、

GLAYファンの皆様、そしてGLAYのメンバー、GLAY関係者の方々、勝手に歌詞を引用させて貰ってスイマセン。。。

今の僕には、とても心に響く歌なので

あしからず、、、


あなたに会えたこと  幸せのあとさき



沢山の老人に出会ってきた。そして、今も出会っている。  

そんな中で昨年、一人のお婆さんが亡くなった。このブログでも始めの方に登場したことのある、夜にトイレに連れて行って欲しいと言い、ポータブルが無いので仕方なく頑張ってトイレに連れて行った事があるお婆さん。。。ポータブルが無いと知ると、オムツにするからと気を遣ってくれた優しいお婆さん。

僕が今の施設に勤め出した当初は、鼻にチューブが入ったままで、御飯を口から食べていた、いや正確には食べさせらていた。食べたくないと言うのに、拷問のように無理やりに口に入れられ、それでも食べないものだから、鼻にチューブが入っていた。

脱水になるからと、飲みたくないと言うのに、無理にお茶を飲まされる。クダが鼻から喉元を通って入っているから、飲み込みが上手くできないので、ムセるものだから、トロミを付けられ、そのトロミが喉を通る時や口の中での、どろっとした感触が気持ち悪いから、余計に飲みたくないと言い、結局は鼻からチューブを通して水分を摂っていた。

食べたくない飲みたくないと言う理由を探す事。どーしたら食べたい・飲みたいと思ってくれるのか考える事。そこに介護の専門性が潜んでいるのではないのか?そこには、無限に広がる可能性。それが介護と言う仕事の醍醐味の一つでは無いか?!

御飯を汁に漬けて口に持っていくと食べた。サジにすくう量を減らしてみたりして工夫し、少しずつ少しずつ時間を掛けて食べていく。 ふいに、「そろそろチューブから行きましょう」とリーダーが言った。無視し、食事を続けていると、経管栄養食をこれ見よがしにそのお婆さんの部屋に持って行き、「もう良いですよ、食べないから」と言い放った。キレそうになるのを堪えた。そして鼻から、、、

夕食の時に、僕が管を抜き取った。車椅子に乗せる時に外れたから、、、とウソをつき、時間を掛けて口から食べてもらおうと決意した。

「いらない、あんた食べよ」とお婆さんに言われたので、その御飯を一口食べた。そして「今度はばあちゃんの番」と言って、それを繰り返しながら、全部を口から食べてもらった。ガッツポーズな俺。

しかし、次の日の朝には、また鼻にチューブが入っている。。。

それが現実の世界。

家族は介護の苦しみから助けて欲しいと我々を頼る。そんな家族からみれば施設は神々しく輝く救いの館だろう。だが、そこではおよそ人の営みとは思えない事が平気で行われる。これが専門性ですからと、何も知らない家族にそう見せ付ける。専門性と言われれば、そりゃ家族は何も言えまい。。。

専門性という名の元において、苦しみや悲しみを我慢しなければならないのなら、そんな専門性はいらない。。。

我々に出会うこと

幸せなのか不幸なのか…目の前には境界線が引かれている。光か闇かの選択肢。老人の行く先はどちらだろう?老いて果てる先は近いようで遠く、それまでの時間は地獄の日々にゆだねる事になるのだろうか?

老人の苦しみは、老いると言う事から向き合いだして始まって行くのかも知れない。。。誰もが老人ホームに入るだなんて、若い頃は思いもしないはずだろう。。。幸せは何気なくて、満たされている時は顔を隠しているからだ。。。

老いると言う事と向き合おうと懸命に戦っているお年寄り達が、足早に駆け抜ける僕等を呼び止める。振り返る余裕もなく、足を止めるヒマさえも惜しい…僕等は時間に業務に終われ続け、時に老人を責める。あれもダメこれもダメ。夜は起きてテレビを見てはダメ、お菓子を開ける為に持っていたハサミもダメ。そうやって老人から何もかもを奪う。そんな権利が何処にあるのか? 専門家だからか? そのせいで老人が苦しみを伴うのなら、そんな専門家は要らない!!

そして、そんな連中の顔色を気にする良心ある介護士と老人。やすらぎに身を寄せる間も無いのは何故なのか?

強くありたいと願う僕は、それでも自分が可愛いから、今のままに甘んじてしまおうとする。生きる強さを欲しがるわりに、弱い自分に甘えてしまうのだ。

いくつかの夢が滲んでいく。。。

目指しているものがある。でも辿り着けそうにない。自分が変われない限り、世界も変わってくれないだろう。そして変わろうとする勇気すらない。声を出すのが怖い、出したとしてもその責任を取るのも、、、この仕事の尊さや楽しさややりがい、本当にお年寄りを好きになる方法、こんな世界を作りたいんだと言う情熱、臆病な夢の高鳴りを伝えたくて伝えたくて、どうせ届かないと諦める毎日。そして、眉間にシワを寄せ誰か気付いてくれ!! と、祈りながら働いている。

うなだれ雑踏に埋もれそうになってしまう時、、、



あなたに会えたこと

その度に、じぃちゃんが、ばあちゃんが、僕の前に立ち道を作ってくれる。

信じあえてること

お年寄りの側に寄り添い、共に生きていくと決めた。お年寄りもそれを求めていると確信している。目の前のお年寄りの苦しみ悲しみ喜び、その一つ一つに心を震わせ、老人からは決して逃げないようにしよう、そう決めている。

さえぎるもののない  あなたへと続く道の上で  今  愛を束ねて届けたいと願う



本当にお年寄りを好きになる方法を見つけた。老人が愛おしいと思える瞬間。

それは、全てにとことん向き合い付き合うこと。 老人の持つ満たされない欲求に、何が何でも応えようとすること。 あーして欲しい、こーして欲しい事に、あーでもない、こーでもないと言われ振り回され、時に憎んでしまうこと、、、そしてそれらを超えて得る瞬間がある。

あ、生きるとはこう言うことなのか、老いるとはそういう事なのか、、、眩しい程のきらめきに僕はうろたえ、そして、人は人との関わり無しでは生きていけないと気付き、お年寄りの傍に行かずにはいられず、その何十年と紡いで来た人生の凝縮されたシワだらけの手を握りしめるのだ。

どんなに願っても、どんなに想っても、どんなに勉強しても、どんなにキャリアを積んでも、お年寄りは僕らの言いなりにはならない。思い通りには行かない。そんな時は、優しさを忘れる自分がいる。分かっている、頭では分かっているんだ。。。何十年、そう1世紀近くも生きてきた人に、生き仏のような人に、まだ人生の初めの方しか知らない、いや人生なんて語るにもおこがましい身分の若造の言う事なんぞ聞く訳がないなんて…でも、だからこそ力が入り、空回りをし、自分を責める。

仲間にも辟易する。こーすればもっと良い介護できるのにと伝えても、思い通りに行かない奴がいる。。。苦しみを提供する、介護福祉士とは名ばかりの連中。 無理強い、拷問、いじめ、時間ばかりを気にし、周りの顔色ばかりを気にし、、、イライラし口を聞くのも嫌になり、声を掛けられてもムシし、眉間にシワを寄せ誰も近寄らせずに仕事をする。

優しさを忘れた自分がいる。。。

時に利用者と我々職員。そして職員同士は、信頼とは何かを疑い出すようになる。疑いは誤解を生み、誤解は距離を作り、距離は大切な情報を伝えず、キケンを生み、キケンは介護の質を落とす。そして、質が落ちればまた疑いを生み、、、際限ない悪循環のサイクルができあがるのだ。。。

迷い続けている。今、自分がしている介護は、本当に苦しみを提供していないのか? 自分自身がリスクになると言う現実にもがき、それでも、老人と共にと言う譲れない信念を持っている。背中に重い責任と介護福祉士と言うプライドが常にのしかかり、いつも介護の事を考えている。どーすれば世界が変わるのか? 何故、分かってくれないのか? 周りはクソでバカばかりだと、自分を棚に上げ誰かのせいにしてばかりで、そんな想いを誰にも言えず伝えれず、、、、世界が沈みそうになっているのを支えようと、誰も信じずに一人で空回りし、もがいている。。。

そんな中でも………

生きてて良かったと言って欲しい。 長生きをして良かったと言って欲しい。 入りたくないと思っていた施設に入ったけど、入ってみたら良かったと思ってもらいたい。 死ぬ前に僕に出会えて良かったと思ってもらいたい。    これからず~っとあなたを守りたいと思うよ

思い出の青さに  涙が止まらない

幾人ものお年寄りが、苦しみを抱え悲しみを訴え、僕を憎みながら死んでいった。 今も同じ過ちを繰り返している。

何度、泣いたのか? 

何度、自分の不甲斐無さに拳を擦り減らしたのか・・・・・・・・・







あなたに会えた事  幸せの後先

ここから二人きり  心  寄せ合って

さえぎるもののない  あなたへ続く道の上  今  愛を束ねて

そして

あなたの愛になりたいと  思うよ

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